チーフとベンチャースカウト隊
きちんとゴールまで辿り着いたことを確かめるには、折り返し地点に何らかの札や菓子を置いておき、辿り着いた参加者が一つずつ持ってくるようにする。最近では口コミで知ったりマスコミで取り上げられた心霊スポットを訪れるだけの肝試しも行われる。肝試しを行う場所の選定には、他者の迷惑にならないように注意が必要である。無人の廃病院や廃校舎にも所有者がいるため、無断で入り込むことは許されない。そのような場所を肝試しに使おうとする場合は、あらかじめ使用許可を得るようにする。深夜に騒いだり、落書きや破壊行為、ゴミを散らかして片付けないなどの不法行為はもってのほかである。このような行為は法律および都道府県、市町村の条例により、処罰される対象となる。また、廃墟や廃トンネルなどの一部には老朽化で崩壊の危険がある所もあり、暴走族や変質者、獰猛な動物などにも注意しなければならない。 地元の人も近寄らないようなスポットや廃墟・廃病院・廃トンネル・墓場などは、もし事故が発生したとしても救助が遅れる可能性が考えられるほか、強い思い込みによって癒されない精神的負荷をこうむってしまう恐れがあることも、考慮されなければならない。また、現代科学では証明できないような事態が発生したという話もあり、少なくとも、そのように信じる人々がいること、当人や信じる人にとって事実と噂は等価値であることにも配慮があってしかるべきである。
日本では、1935年に本格的なスポーツ車が作られ始めるが、戦争によりこの流れはいったん途絶える。第二次世界大戦後、1950年代頃からサイクリングが野外での健康的なスポーツとして認識され始め、全国各地に同好クラブが設立されるようになった。特に1954年、荷物を載せるための運搬車ではなく人が乗るだけの軽快車やディレーラーを備えたスポーツ車が現れるようになり、サイクリングが流行した。これを受けて、ベテランサイクリストらにより、日本サイクリング協会が結成され、ボランティアの普及活動が始まった。サイクリング向きの自転車は生産量がまだ十分でなく高価であったため貸自転車の利用が中心であり、また指導者が不足したことなどから短期間のブームに終わった。1961年のスポーツ振興法の制定により、自転車旅行・サイクリングは国民の健全なスポーツとして国が奨励するものとなった。1964年には日本サイクリング協会が財団法人として認可された。1966年にはスポーツ車の需要急増に伴い、生産が大幅に増加した。第1回の体育の日となったこの年の10月10日、国鉄大阪鉄道局が大阪駅〜相生駅間で初のサイクリング専用電車を運行した。その後東京でも同様の列車が運行された。翌1967年10月10日には、日本で初めてのサイクリング用道路、神奈川県青少年サイクリングコースが開通した。日本では1975年頃から1980年代前半にかけて最も盛んであったとされている。1970年に自転車道の整備等に関する法律が成立し、自治体と河川管理者などの協力によってサイクリングロードも建設されるようになり、太平洋岸自転車道のような長大な自転車道も構想された。この頃日本の自転車産業ではランドナー、スポルティーフ、キャンピング車といった自転車旅行向きの自転車の生産が盛んで、またブリヂストン・ロードマンに代表される「サイクリング車」が好評を博した。自転車で日本一周に挑戦する少年を主人公とする漫画『サイクル野郎』が連載されたのもこの期間である。
今日では、67ヶ国の国内組織がIOFに加盟している。これらの国々は全ての居住可能な大陸を網羅している。世界選手権は1966年から2002年まで隔年で開催され、2003年以降は毎年開催されている。ユッコラ・リレーとティオミラも1940年代から開催されている。最大のオリエンテーリング大会であるO-Ringenは1965年から毎年開催され、約15、000人の競技者がスウェーデンの森で競っている。スキーオリエンテーリングやマウンテンバイクオリエンテーリング、トレイル・オリエンテーリング、ラジオ・オリエンテーリングなど、新しい種類のオリエンテーリング競技が開発され、多岐に渡るジャンルの競技者の関心を呼んでいる。競技は特に北欧諸国やスイスなどで盛んであり、フランス、イギリス、東欧諸国でも普及が進んでいる。ヨーロッパ外ではオーストラリア、ニュージーランドが強豪国となっている。1996年にオリンピック種目にオリエンテーリングを加えようという運動が始まった。2001年にワールドゲームズの一種目となり、夏のデフリンピックにも加えられている。しかし、オリエンテーリングがテレビ中継にも観戦にも向かない競技であり、また、競技会場は都市圏から離す必要が出る場合が多く、競技時間が他の個人スポーツ種目に比べて長い、といった欠点についての認識はオリンピック種目への追加を推進しようとする側でも共有されている。このため、オリンピック種目に向く競技形式の確立が求められることとなり、パーク・オリエンテーリング、マイクロオリエンテーリング、スプリント・リレーといった競技形式が出てきた。スキーオリエンテーリングは最もオリンピック種目になる可能性の高い競技形態として普及が進められている。公式の公開種目ではないものの、1998年長野オリンピックに際して、日本の菅平で国際文化イベントの一環としてスキーオリエンテーリングの国際大会が開催された。 IOFは2002年に国際オリンピック委員会に対し、スキーオリエンテーリングを2006年のトリノオリンピックで採用するように正式提案を行った。特に、提案では大会会場をバイアスロン競技と共有できるメリットについても触れられた。しかし、スキーオリエンテーリングはトリノオリンピックにおける競技実施として正式勧告に取り入られなかった。オリンピック競技委員会は、北欧諸国以外での競技普及の弱さ、「放送事業者と観客が実施競技の観戦を容易に行えない難点」、新たな成績システム関連の技術開発に関わるコスト費用の3点をその理由として挙げた。一方で、IOCはスキーオリエンテーリングがオリンピック競技採用の有力候補であると認め、2014年ソチオリンピックに向けて競技委員会の審査対象とすることを検討中であるとしている。
明治時代、複数の欧米人が日本アルプスに登った。アトキンソン、アーネスト・サトウ、ウィリアム・ゴーランド、ウォルター・ウェストン、バジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン などである。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある。その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎、木暮理太郎、小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った。陸地測量部は館潔彦、柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる 。明治期の日本アルプスの登山では、長野県の内野常次郎、上條嘉門次、小林喜作、遠山品右衛門、横沢類蔵、富山県の宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵 など、地元の猟師が案内をした。